筋トレ母さんのアメリカ滞在記

筋肉大好きなニ児の母、夫の赴任で子連れアメリカ東海岸生活スタートしました。

自分の中のルッキズムの呪いに気づく

新年あけましておめでとうございます!

アメリカでは1月2日から普通に学校があるので、「三が日」という概念はなさそうですね…。あと、年の終わりにも始まりにも特に「神聖さ」や「荘厳さ」は感じていないようです。アメリカ人に初日の出のことを説明したけれど、「日本人にとっては自然が神様なんだねー」とピンとこない顔でつぶやいてました。確かに初日の出になんで荘厳さを感じるんだと問い詰められるといまいち説明できないw でもきっと文化的に理由があるはずなので勉強しておこう…。

あっ、アメリカは日本と違ってお正月に門松を飾る的な風習もないためか、クリスマスのオーナメントは各家庭にて余裕でピカピカ光ってます。

入場料を取れるのでは?というぐらいイルミネーションがおしゃれで素敵なお庭もあれば、パチンコ屋なのでは?とおもわず耳を澄ませてしまうぐらいドギツい色とりどりのイルミネーションのお庭も、巨大なスノーマンが光る家、トナカイがソリを引いている家、はたまたイエスキリストがこの世に誕生した瞬間を祝うリアルな木製の像が置かれているお家(夜中に薄暗い光の中で見た時ちびりそうになりました)・・・まあとにかく、ほとんどのおうちで今だに現役でピカピカ光っています。って我が家もリースが飾られたままですけどw

というか、クリスマス来る直前まで、というか来たあとも、ハロウィンのカボチャが普通に玄関前にある家たくさんありました・・・つい昨日もサンタが普通に出てくるCM見たばかりです。カボチャとサンタの夢の共演。なんていうか、季節感が「ゆるい」?いや、クリスマスが終わった翌日には儚い夢バブルがはじけたように一気にツリーとイルミネーションを撤去する日本人の切り替えと真面目さのほうがもしかして変わっているのでしょうか?(ちなみにそういう切り替えについていけてなかったタイプなので、このアメリカの緩さに許されたような気がしている日本人です…)。

 

人をよく褒めるアメリカ人

さて、いきなり本題なのですが、アメリカ人は人をよく褒めます。友人同士はもちろん、通りすがりの見も知らぬ他人も気軽に褒めます。例えばファストフードのお店で注文したとき、「あらそのネイルええやん」「そのジャケットすてき」「そのヘアカラー似合ってるね」みたいに褒めます。目について「いい感じ」って思ったからついでに言葉にしましたよ、みたいなライトな感じ。その小さな幸せをおすそ分けしあう軽やかな雰囲気が好きで、私も素敵と思ったことはその場で声に出して相手に伝えるようにしています。


こないだはスーパーで会計のときに私が着ていたセーターをみて男性の定員が「素敵なセーターだね、手編み?」って聞いてきて、そんなわけはないので(←小6以来編み物してない)買ったやつだよーと答えると、「僕編み物大好きなんだけど、そういう色の組み合わせで友達にマフラー編んであげたんだよ」と話してくれて、まじで?すごい!他にどんなもの編むの?みたいに会話が盛り上がって、「ときどき自分の手編みニット着てるからこんどまた見せるねー」みたいな流れになりました。

日本でこんな展開って…服を買うとか化粧品を買うなどのある程度長時間のエンゲージメントが発生する環境ならありえるかもだけど、普通のスーパーマーケットではなかなかない気がする。店員と客というよりは、あくまで人間と人間っていう関係性が背景にあるからこその軽やかな展開なんだろうな。


なんでも褒めるわけではない

でも、よく褒めるからといって何がなんでも褒めるのではないところがポイントだと思われる。つまり、「ネイル素敵!」とはいうけど、「指が綺麗ですね」とは言わないし、「ジャケット素敵!」とはいうけど、「グラマーなので似合いますね」とか「痩せているから似合いますね」とは言わない。

つまり、一般的な良識的なアメリカ人の場合、相手の容姿については勝手にコメントしないのが一種の最低限のモラルになっている感じがする。

ルッキズムって言葉がありますよね。インターネット上の辞書だと、「外見的な美醜を重視して人を評価する考え方。容姿による差別をいう」とありました。こうやって読むと、ほとんど全員が「私はそんなことをしない」って思うと思います。容姿による差別なんかしない!容姿がいい人にへつらって、容姿が悪い人をdisって、そんなことしないって思うんじゃないかな。

でも私がアメリカに住み始めて気付いたのは、自分自身もルッキズムの呪いにしっかりかかっていたし、きっと今も解放されてはいない。(もちろんアメリカ人であれ何人であれ、完全にルッキズムから自由でいることは簡単ではないと思いますが)

どうしてかというと、ルッキズムとは、「当事者がいないときにその人をどう表現するか」という場面で顕著に露呈するということを発見したんですね。

もちろん、「あー、あのすごく太ってて目が細い人だよね」なんていう人はいませんが、でも、「ほらあの、スリムで色が白くてめちゃくちゃ美人の人!」みたいに言うことありませんか?私は言っちゃってました。つまり会話の相手に第三者についての描写をするとき、自分の判断による外見的な美醜の情報を手渡していたんです。それってまさにルッキズムなんじゃないかなと思ったのです。


たとえプラスの意味でも容姿の判断を入れない

美醜について、「プラスの情報だからいい」のではないんだと気付いた。自分以外の誰かについて、たとえ良いことでも悪いことでも、本人が求めてもいないのに何かしらのジャッジメントをしてさらにそれを会話に入れてしまうのは、立派なルッキズムなんじゃないかなと思うに至りました。

例えばいまやアメリカの職場では「美人だね」とか「スレンダーだね」みたいな一般的には褒め言葉とされていることを女性に声がけすることもセクハラの範疇に入ります。(いまだに「褒めているのに何がいけないのかわからない」という絶滅危惧種的な中年男性も存在するようだけど…大統領とか)

 そう考えたら、たとえば私たち女性が女性を描写するときも、たとえ褒めているつもりでも、不必要に容姿への言及をする必要はないのではないかと最近考えています。

ではアメリカ人はどのようにその場にいない人の描写をするかというと、あくまで私の周りの友人たちの話になりますが、「すっごくいい人だよ!」とか「めちゃ面白いやつ!」とか「静かだけどいい人」とか「クラスに毎日来る人」とか、つまり容姿ではなく性格とか行動を描写するという印象です。正直、それだと事前に曖昧な印象しかわからないことが多いんですがw が、だからといっていざ会ってみて困ることは実はほとんどないなあという発見もあり。

もちろん第三者の容姿についてまったく言及しないわけではなく、背が巨大だとか小さいだとかヒゲがすごい、みたいな情報は聞いたことがあります。でも痩せているとか太っているとか美人だとか、間違っても肌が白いとか黒いとかは、もちろん言いません。


容姿を褒めなくても人は褒められる

私の友達にものすごーく人を褒めることが上手な女性がいるのですが、彼女はよく私に「運動後の血色が最高だね!」とか「そのウェアあなたの髪の色にめちゃ似合ってる!」とか「エネルギッシュにサンドバッグを殴りまくってるあなたに元気をもらう」(笑)とか、そういう褒め方をしてくれます。彼女とつきあっていると、自分がいままでの人生でいかに褒め方のレパートリーが乏しかったか思い知らされるのです…。きっと知らず知らずのうちに「美人」「細い」「背が高い」「肌が綺麗」「顔が小さい」・・・そんな容姿先行型の褒め言葉で満足して、思考停止してきたからなのかな…。

まだまだこのテーマについては考え始めたばかりでまとまらないのですが、少なくとも自分の中に長年あったルッキズムベースのものの見方を、少しずつでも見直していくことから始めていきたいなあと思っています。また、例えばルッキズムで溢れかえった会話の中に身を置くときに、少なくとも自分はそれに加担をしないことも大事かなと思ったり。

 ルッキズムが密接に絡む様々な差別や不平等やジェンダーなどの社会的な問題を少しでも改善できたらというお利口なモチベーションだけでなく、ルッキズムの呪いが解けたなら、自分自身が世の中をもっと豊かな視点で見て、他者についてもっと豊かな発見があるのではないかという期待があるからです。

ちなみに最後にこれは別で今後とも考えたいなと思うのは、アイドルについてです(笑)。私は推しアイドルのダンスも歌も性格もさることながら容姿もいつも完璧で最高ですね、とひたすらべた褒めして生きているのですが、これは大丈夫なのかと。プライベートな直接の関係のある人間関係とはまた違う視点での考え方が必要なのかもですが、少なくとも、太ったとか痩せたとか、整形したとかしてないとか、そういうことを(たとえ心配したり擁護する意図があったとしても)外野が過度に騒ぐのはアイドルを縛っていくのだろうな…と思いました。最後いったい何の話、ですけれども、また引き続きなにか考えがまとまったらUpdateしますね!