筋トレ母さんのアメリカ滞在記

筋肉大好きなニ児の母、夫の赴任で子連れアメリカ東海岸生活スタートしました。

ルッキズム考察続き…容姿にまつわる情報の優先順位の高さ??

こんにちは!

いま、次男のtutorが来て学校の宿題を見てくれているんですが、さっき二人に淹れたお茶を、どちらかがこぼして次男のノートパソコンが壊れるのでないかという言いようのない恐怖にかられています。次男にお茶なぞ淹れるのではなかった!奇跡的に気配りをしてしまったことを後悔しています…。

さて前回のブログを読み返してみて、なんかすごく結論が急でわかりにくいな…と思いました。日常に潜む自分自身のルッキズムの呪いについて、もう自分が感じている小さな違和感を補足として掘り下げていきたいなと思います。

こっちに来て気付いたのは、
知らない人についての話をするとき
もしその人がとても美人もしくはイケメンであれば
その情報はあらかじめ教えておいてほしい。
もしくは、当然教えてくれるはず。

という意味のわからない期待というか予測が、明らかに自分の中に存在することでした。笑


というのも、あくまでこれまでの私の経験によると…ですが、日本では第三者の話をするとき、その人が美人もしくはイケメンであれば、その情報はなんらかの形で事前に知らされることが多い。と思うんです。

一方、私の周りにいるアメリカ人の友人の場合、第三者の話をするとき、いやもちろんその場に相手がいるときはもちろん、「美醜」という意味でその人の容姿の情報を付け加えるのを聞いたことがありません。今のところ。

もちろんこちらにも美しい人はいるしハンサムな人もいる。恋人関係になったら四六時中「君の瞳の色が好き」とか「君のお尻が好き」とかそういうこと言い合ってると思います。しかし十分親密な関係にならないうちに、不用意に他者の容姿について言及するのはルール違反だという雰囲気が確実にある。


いつまでその話しとるねん、と思われたとおもうんですがw

つまり、

日本で我々が扱う他者についての情報において、「容姿の評価」を、無意識のうちに優先順位が高いものとして扱っているのではないかと思ったんです。

で、もしかしたらアメリカ人の友人たちがひときわ倫理観が強いというわけではなく、単純に生まれ育った環境の中で「容姿の評価」の優先順位が(我々に比べると)低いので、自然と会話の中にその形容が入ってこないのではないかという仮説を立てました。

あと、人との間の「境界線」の意識が日本人よりはっきりとあって、容姿についての言及をすることも、ある種ボーダーラインを越すことになるから、一般的なおつきあいの中でその情報が出てくることはない、ということなのかもしれません。

本当に微妙な、地味ーなことをいつまでも考えているのは自分でも承知なのですが、「気づかないぐらい深く刷り込まれた固定概念」って実は派手な形ではなくて、こういう日常の会話の当たり前に潜んでいるような気がして、こうやって書きながら掘り下げてみています。


考えすぎている気もするけど、どうなんだろうか?
たとえば昔、親戚やお友達の親御さんが、「⚫︎⚫︎ちゃんは色が白くて可愛くて、一方…」みたいにいうのを聞いたことがあるし、実際に自分の娘ちゃんが「二重まぶただったらもっと可愛かったのにね」と親御さん(娘ちゃんにとってはおばあちゃん)に言われて激怒していたお友達も知っている。

「残念なブス」と自称していた人も知っているし、体型についての自虐ネタで笑いをとっている女芸人も、頭髪についての自虐ネタで笑いをとっている男芸人も知っている。

容姿についてプラスの判断を他者に対して押し出していくことは一見害がないようだけど、実は我々のほとんどが個々に経験したことがある、容姿についてマイナスな経験を生み出している何かと実は根っこは同じだったりしないだろうか?それを自虐として昇華しないと向き合えないと思ってしまうほどに、我々は容姿の良し悪しの判断を優先順位の高いものとして扱っているのではないか?

と、考えたところで何を書いてるかよくわからなくなったので、今日はこれぐらいにします!(いつものパターン)


でもまあ、アメリカももちろん同じようにいろんな人がルッキズムの呪いに苦しんでいて、そういう背景があるからこそ、新しい世代を象徴するBillie EillishやLizzoなどの歌手が今ここまで支持されているのだと思う。彼女たちの歌を聴くと、旧世代のいろんな呪いから解放された力強いメッセージを歌っていて、「いびつな私だけどそのままでいい」という健全な自己愛をすごーく感じます。


Lizzo - Good As Hell (Official Music Video)

 

大好きなLizzoの曲MVを貼っておきますー!!


ではまた。