筋トレ母さんのアメリカ滞在記

筋肉大好きなニ児の母、夫の赴任で子連れアメリカ東海岸生活スタートしました。

『パラサイト』を観て考えた、計画を持つことと責任を持つこと

こんにちは!

 

少し前に、『パラサイト』がアカデミー賞の作品賞・監督賞・脚本賞・国際長編映画賞を取りましたね。

 

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私はその前に2回見ていて、amazon primeでストリーミングも購入していたのですが、受賞したことで16歳の長男にも「巷で噂のパラサイトとやらを見たい」と言われ、映画館に連れていきました。

血とかアレなシーン(アレなシーン)があるからどうかなーと思ったけど、「高校の先生に絶対見た方がいい!見てきて!」と言われたというので…。ちなみにその先生は韓国系アメリカ人の先生で、長男が非常に尊敬している先生みたい。もう少し保守的な州に住んでいる友人からは、「パラサイト観てきてなんて、そんな素敵な先生がいるんだね」と言われたな。


映画での彼の反応はというと、ちょっとバイオレントなシーンでは怖すぎて手で目を覆っていました…かわいい。そういえば「ゲット・アウト」観に行ったときもそうなってて映画館出たあと気持ち悪くなって、最終的にはなんで連れてきたと怒ってたことを思い出し…。でも今回はさすが高校生、「うっ」となりつつも最後までしっかり鑑賞し、いい意味で作品にショックを受けていました。
 

ところで、いきなりですがどうやら私はすごく「ネタバレ」が嫌いです。どうでもいいと思っていることについてのネタバレは全く何にも思わないのだけど(そりゃそうか)、自分が楽しみにしてきた作品について意図せずネタバレを踏んでしまうと、憤怒、のち、虚無の気持ちに襲われます。

そのことについて考えてるんですけど…あれって「人の体験そのものを奪う行為」ですよね??そもそも私たちが映画や本や演劇やドラマなどの作品に向けて期待していることは、単なる「筋書き」ではない。この人がこうしてこうして…へぇーそうなるのかっていう、そういう話の流れを知りたいというだけじゃなくて、そこで喜んだり悲しんだり驚いたりする自分の生きた感情を味わうこと…それがエンタメの醍醐味じゃないですか。ネタバレってその、物語とともに生き生きと変化するはずの感情をある程度あらかじめ殺してしまうようで、よろしくない!怒!なので期待している作品については全力でネタバレを避けようとして生きています(よく失敗してネタバレ踏むけど)。

 

というわけで、何が言いたいかというと『パラサイト』についてもネタバレするつもりはないし、したくないのですが、そうすると途端に何について語っていいかわからなくなるような映画でもある。ひとつ、映画に出てくる印象的なセリフについてこんな風に感じたよーというのを書きますので、「それもちょっと読みたくないわー」という方はここでダッシュでおかえりください!

 

『パラサイト』には、雨、光、高低差、におい、人の善悪と貧富、象徴、境界線、演技、ブランドとしてのアメリカ(!)など理解を深めるにあたって印象的なテーマがいくつかありますが、3回目に観たあとにずっと考えていたのは、お父さん役が息子に向かって言う、「無計画こそが最高の計画だ」という言葉でした。それ以降、「計画」ということについてずっと考えている感じ。

半地下に暮らす主人公一家は「計画」を持たず、その日暮らしで、でも家族仲良くやってきた。とあることをきっかけに息子が「計画」を持ち、その計画に家族を引き込んでいく。計画通り順調に進んでいたように見えたけど、ある晩すべての計画が崩れる。そして息子は呆然とした顔で父に次の計画を聞くんですよね。その答えがこれ。

「計画を立てると必ずうまくいかない。だから無計画が一番だ」
(うろ覚えなのでセリフその通りじゃないと思われ)

 

まず思ったのは、「計画」というのはもはや特権階級だからこそできることで、持たざるものは「計画」することすらできないということが描かれているのかな、ということ。

主人公の一家は自分たちの状況を変えるために計画を持とうとするのだけど、結局この格差と階級社会という揺るぎのない構造のなかで、下層に住む者が何かを計画したって簡単にうまくいくわけがなく、それは「失敗」になり「敗北」になり、計画立案者は「無力感」を募らせて終わる。だったら初めから計画なんて立てないほうがいい。立てない計画に失敗はない。たとえ犯罪を犯すことになっても、国を売ることになっても、そのほかに計画があったわけではないのだから、それは失敗ではない。

みたいな、やや詭弁的な理論にのっとった父親のセリフではなかったかと推測するんですが…どうでしょうかね。勉強とか努力や勤勉さといった意思に則った「計画」が確実に報われていた時代から、それだけでは決して乗り越えられない壁の質量がどんどん増してくる時代の中で(韓国だけでなく日本も同じように格差社会が進行しているように個人的には感じています)、計画を放棄するという生き方が示される。
 

でもそれで社会が何か変わるかというとそうでなく、下層に位置するとされる人たちが計画を持たず、自分の意思を持たなくなり、生き方を他者に委ね、社会や政治や構造に振り回されて生きていくことで、格差やその構造はむしろ強化していき、社会の上層部にいる人たちは計画を持ってより豊かになっていき、下層部の人はより奪われていくという分断の強化が起こるという皮肉。もちろんポン・ジュノ監督の意図ははっきりとはわかりませんが、そういうことまで表現したくていれたシーンのような気がしています。

あとこれは、とある特徴的な登場人物のセリフにはっきり描かれているのですが、計画を持たなくなり、「上にあがろう」という意思を徹底的に放棄した後には、「上」つまり持つ者に対して「下」として徹底的に依存して服従して隷属する未来が待っているんですよね。心も体も。上っていこうとは思わないし、底辺で暮らすこと自体に安寧を感じていたりして、むしろ変化を好まなくなるみたいな…。

なるほど格差というのはこうやって構造化されて強化していくし、それを個々人の「計画」や「意思の力」で風穴を空けて変えていくのがどれだけ難しいか…。というのが、『パラサイト』3回目鑑賞後にしみじみ考えさせられたことでした。

でも、これだけだとなんか他人事みたい。そうじゃなくて、この映画をすごく自分に引き寄せて考えられるようになったのは、この映画に出てくる「計画を持つ・持たない」ということを「言葉にする・しない」に近いものとしてとらえている方をTwitterで見かけたことからなんですよね。
 

計画を立てることって何から始まるかって、言葉にすることからだと思う。ノートに書いたりソーシャルメディアでつぶやいたり家族や友達に話したり。朝起きて仕事して家事して寝てみたいなそういう生活に必須の「実務用の言葉」ではなくて、自分が今どう感じているかとか、自分が置かれている社会や制度に対してどう思っているかとか、何を望んでいるかとか、そういう「表現する言葉」。


そういうのって別にしなくても健康に楽しく毎日を過ごせるかもしれないし、下手に何か発言して炎上したり問題を引き起こすよりは…と思って、感じたことをあえて言葉にしないまま胸の中に閉じ込めている人も多いのかもしれないと思うし、その気持ちも理解できる。

だって言葉にすることで責任が生じるし、言葉にすることで、そうしなければ他者に見えるはずのなかった自分の内側の思いが可視化されてしまって、それは共感を呼んで自分の力になるときもあれば他者が自分を攻撃する武器になるときもある。言葉にすることは、本来すごく怖いことでもあるんだと。

でも、言葉にすることは責任を伴うと同時に自分の意思表示であり、意思表示の繰り返しから「計画」が生まれて、計画を持つことから少しでも「自分の人生」と言えるものに近づけるのかなと思うと、やっぱり私は言葉にすることをたゆまなく続けていきたいなと思った。ということが書きたかったんです。

これは実は、日本で仕事をしているときにもよく言ってはいた。仕事のクライアントのみなさんに、アウトプットしましょう、言葉を紡ぎましょうと。ただ私自身、恥ずかしながらそのときは、社会や、政府や、仕組みについて物申すことには及び腰だった。それはスマートなことではないとどこかで思っていた自分がいるし、自己表現というコンセプトと、社会の構造的な部分への言及とが結びつかなかった。わかりやすい例でいうと、例えば政治について公に語ることを巧妙に避けていた気もするし、それがスマートな大人だと思っていた。

でも、これは今自分がアメリカで暮らしていることも大きく影響していると思うけれど、自分の内側の思いを言語化するという内省の一貫の表現だけでなく、自分の住む社会について、政権について、制度について、仕組みについて、おかしいと思うことはきちんと声をあげていくという意思表現も大切な自己表現のひとつであり、ひいては自分を大事にすることなんだと確信できるようになってきた。なので、おかしいんじゃないのと思うことについては声をあげたり、また勇気を出して声をあげてくれた方にしっかり「連帯」の意思表示をしたり、そういう風に自分が住む社会に対して意見と計画と責任を持つ大人へと、もっと成熟していきたいと思う。

まあこうやってブログに書いても、数日後に恥ずかしくなって取り消したくなったり、数日後に書いたことと違う考えに変わったり、はたまた書いたことが原因で厄介ごとが起こったりしなかったわけではないけど、それでも責任感を持って外に対して発信して、それが生む他者や自分の反応を受けて、また新たに発信する…その繰り返しで、なんとか自分の人生の梶取りを他者(社会、国家)に委ねっぱなしにせずに済むのではないかと思っています。今は。

だから、この映画は「韓国の格差社会って大変だね」「まだ半地下に住んでいる人がいるんだね」みたいなお隣さん大変だねっていう類のものじゃなくて、自分の内側にあるかもしれない、「計画を持つことを拒んで、大きなものに巻かれているほうが楽だとどこかで思っている」自分の中の被支配者体質みたいなものと向き合わざるを得なくなるような映画だと思いました。

 

映画の終盤で主人公がひとつの計画を立てることがとても意味があると思った。無駄なように見えても、奪われ続けても、計画を立てることを諦めない、意思を持つことを諦めない、ほんの小さな光だけどそこに希望を見たような気がする映画でもありました。いや本当に、ポン・ジュノ監督…RESPECT!!!